いつの間にか卒寿の節目の年となった。80を過ぎた頃から体力の衰えを感じて転ばないよう下り坂を歩く。そんなひとときに、いつもそばで心の隙間を満たしてくれる湯飲みがある。金城次郎の晩年の作品で、彼が得意とした魚とエビの命が線彫りされている。
私にはぜいたくなものだが、飾っておくものではないと思う。〝用〟を目的に、多く作って安く売る。「ボクは陶工だから」と多少の不出来を気にしない達観の姿勢が、高価な陶芸家との違いだと思う。自然に逆らわず邪気のないぬくもりが人の心を引きつける。
湯飲みからはみ出るように線彫りされた魚やエビは、笑っているのか、踊っているのか、海からの生命を宿した誰にもまねることができない次郎さんの技がある。個性と風土性が評価されて人間国宝に認定された方である。
晩年に見られるろくろ仕上げの上手下手は、この湯飲みには関係なかった。線彫りされる魚の「線」の曲がりや速さが、力強い海の生命を作り出している。生命はまず海で生じ、進化して陸地に上がってきたといわれている。太古の記憶が今も人に染みついて、海への郷愁が湯飲みに宿っているのかもしれない。
今、自分を見つめる時、楽しい世代は過ぎて、町内の一員として生きていく厳しさがある。ごみ収集の準備をする月当番がやってきた。早朝、人知れず準備をやってくださった善意の方がいた。
いびつが見える年寄り時代に、互助の温かさを知らされた年であった。ごみ収集日を前に片づけて、ほっと一息する充実感。湯飲みの魚やエビもそばから笑ってくれる。小さな生きがいを感じる時である。
by 松浪 孔 2017.12.19