老いの一服の茶

 1人でたて、1人で飲むお茶。茶室もなく釜もなく茶会に招かれることもない。茶わん一つだけの自得のお茶が、午後の回想のひとときである。孤独の茶である。若い時から抹茶は日常のたしなみであった。今、老いを背負って来た道を振り返り懐しむ一服の茶となった。

 独座して孤独の茶に思惟しいの最高の心境を茶の湯に求めた茶人がいた。幕末の大老井伊直弼の「独座観念」の茶の湯である。茶会を終え客を送った後、心静かに茶席にもどり独座してたった1人の茶の湯をせよ、というのである。

 独座から自己の思惟の世界に収斂しゅうれんしていく、遊びから人間の在り方を問い確認しようとする、これまでにない独座の茶の湯を、最高の心境と位置づけた。

 優雅な茶道とはほど遠い1人でたてる大名茶人の独座の茶も、私の拙い茶では次元が違う。独座は格式への抵抗のようにも思える。独座観念はともしびのように、私の1人でたてるお茶の深さ照らし出して、自分だけのお茶の世界をつくってくれたように思う。

 子供に世話になって静かな老後を暮らせる時代ではなくなった。年金や医療制度に守られた幸せの中に孤独を感じる。衰えてくる体力に1歩のあゆみのありがたさを感じるのが老いである。身近にある焼きものが孤独を救ってくれている。

 一服の茶に今の季節は、深めの茶わんがよい。井戸と椀形わんなりの白薩摩さつまの二つの茶わんを選んでみた。白薩摩の柔らかい触覚、黄金色に染みた見込みは、40年の歳月で生まれた景色である。使うほどに黄金色に立派に育つと言って勧めた天文館の女主人の昔を思い出す。茶わんを手に取り眺めて、思いを深めてくれる一服の茶は、初めて気づく回想の数々を、深く心に刻んでくれる。

 by 松浪 孔 2018.3.25