浮き雲が通り道の大山で寄り添うように語り、離れて東へ行く。天然がつくり出す姿を美しいと感動する時、自然との対話が生まれる。
戦前の昭和はどんより暗かった。貧しい暮らしが幼時の私にもわかる頃、汚れのない無意識を丹後の自然が育ててくれた。小学校高等科に入った頃から軍事教練が教科となり、次第に軍国一色に染まって多くの人が耐乏を強いられた。
その頃、西舞鶴市の桂林寺で座禅を学ぶ授業があった。夕暮れの座禅堂で壁に向かい、遠い先を見つめることから始まる。雑念が薄まって、さやかな夜の遠くで犬のほえる声が夢のように消えていく。14歳の私が体験した無一物につながる心の持ち方を座禅に学んだように思う。
無一物に徹して生きた禅僧がいた。 江戸時代後期の良寛和尚である。貧しさを飄逸した良寛の人間味の香りに心ひかれる。生涯妻や子もなく、大寺の立派な袈裟をまとう住職も望まず、清貧の思想を貫いて生きてきた。陰でこじき坊主と言われながらも気にせず、子供相手に遊ぶ天真の姿は無一物そのものと思う。
脱俗の和尚にも70になって美貌の貞信尼との恋があった。74年の生涯は、貞信尼に介抱されながらの往生であったという。良寛の生きざまは、今の時代の飢えを満たしてくれる心の糧のように思う。
戦後の昭和は、生活の豊かさが代償として精神の貧弱化を生みだし、逆境に耐え抜く心の持ち方を問われる時代となった。無一物とは一切の煩悩を離れた境地と辞書にあるが、俗人の私にはむずかしくて無理である。
ふと見上げる空が創造する彩りに感動する。 日々の暮らしに自然との対話が私の無一物につながるひとときと言っても大きな外れでもないように思う。
by 松浪 孔 2018.7.11