伊賀の上野市から北に一山越えれば民家のまばらな集落が広がる。伊賀国北限の丸柱で茶陶古伊賀の名品が生み出された陶郷である。派手さがなくのどかな里である。この集落に二十軒ほどの窯元があると聞いている。
この地で生まれた桃山の茶陶にはすごみがある。中でも古伊賀水指「破袋」の割れ裂けたすごみは、破壊寸前まで抵抗した窯変の美の極限といえる作品である。
この強い印象は私をこの地に立たせた。古伊賀が焼かれた堂谷の窯跡は区民グラウンドになっているという。ここ丸柱は、戦国の暗い過去の歴史を背負った地であることは間違いない。
戦国の世、野望に燃える信長は、小さな伊賀国に五万の大軍を率いて全土を焼き尽くした。自治を大切にする伊賀民衆の抵抗は、ここ丸柱でも言語に絶する肉迫戦となり、ついに散り全土が焦土と化した。「伊賀天正の乱」である。
ようやく戦国乱世も治まり、筒井定次が伊賀の領主として入城し、土地の陶工も一筋の光が作陶に励みを与えた。しかし「伊賀天正の乱」は昨日の出来事であり、おん念の傷は深く簡単に払しょくできるものではなかった。
城主の達しで焼きあげた水指、花入れなど、不良品もあったが、とにかく納めることにした。何日も火と闘い焼き続けた陶工にとって一つ一つが入魂の品々であった。
織部正も来ていた。織部正は水指の一つを取り上げ、しばらくして「これは傑作である」。控えていた陶工も驚き、理由は分からないが感動した。独特の袋形の下の膨らみに大きく割れ裂けた傷を景色と見立てた。そして草庵の窓から差し込む明かりに、水を得てあやしく目ざめた水指を連想したのかもしれない。
訪ねていた窯元の近くに徳王寺という伊賀十五番札所がある。山門から丸柱地区が一望できる。
桃山の茶陶は名もない陶工によって、ここ丸柱で作られた。慟哭の悲劇を胸に秘め、思いは黄色の窯炎に乗り移り、何日も焼き続けて窯変の極致を作り出した。遠く眺めていると、桃山の山河が重なり合って通り過ぎる。
昨年一月二十七日、東京は大雪だった。雪の五島美術館の奥まった所に重要文化財「破袋」は静かに待っていた。茶人、数寄者に愛され守られてきた豪快な顔立ち、しばらく見続けた。歴史の地の流れを受けた桃山陶工の忍と抵抗の気骨が名器を作り出したとも思うし、桃山という時代が古伊賀という独特のすごみをつくり出したとも思われる。
織部正は名器「破袋」に「今後是程のもなく候」つまりこれ程のものはできないだろうとの添文を書いた。これは現代の豊かな作家への激励のメッセージとけ取れる。そんな思いをしながら美術館をあとにした。
by 松浪 孔 2002.7.18