越前の甕墓

 越前焼は、平安末期から長い歴史を持っているが、世間に知られるようになったのは、昭和の中ごろである。十月十六日、何かを期待し古窯のまちを訪ねた。

 北陸本線の武生駅からバスで越前海岸へ向かって三十分ほど走れば丘陵が迫り山間に入る。そこが宮崎村である。バスは隣りの織田町を通り山越えして日本海に出る。

 私は織田町で降りた。通りは、観光客を呼びとめることを知らない静かな史跡の町といった感じだ。

 この地方は、海を渡って朝鮮半島から渡来した陶工の須恵器の窯跡が、宮崎村付近に数多くある。古越前はこの基盤を受けて、鎌倉時代から開窯され、宮崎村、織田町の丘陵に穴窯の火を絶えることなく燃やし続けた。今も歴史を語る窯跡が二百基もあり、未発掘の窯が数多く眠り続けている。

 来た道を戻り、宮崎村の手前から右手の丘陵の坂道をあがれば、平等の集落がある。その一番奥に、古越前のかめ作りの技を、今に守り続ける藤田窯がある。窯元の案内で昔の陶工が眠る墓を訪ねた。

 畑のその先に数基の石塔が立っていて、共同墓地だとすぐわかった。手前に大きな杉の木がこんもり茂っている。その下に無数の大きな甕が伏せてある。全部甕の口の一部が切り取られ窓のように内が見える。甕の前にはタコ壷が甕に寄りかかっている。異様な光景である。 手を合わせるのも忘れ感動した。この甕の下に、無名の陶工たちが葬られている。

 江戸中期の寛保元年の記録によれば、この平等には二十四戸の窯元があった。「半農半陶で盆前後から十月ごろまで甕を作り焼いた」雪は若狭、丹後より激しくて深い。風雨で湿り曇った日の方が多く、窯きは秋の一時期に限られていたのであろう。

 村で不幸があると、外れの野原に若者が穴を掘り、埋葬した。 きびしい土に生まれ、甕作りを親から子へと伝え、死ぬまで働いて大地に眠った。暗い北陸の宿命の一こまを、この甕墓に見る思いがしてならない。

 案内の方に礼を言って甕墓を後にした。少し歩いて振り向くと、畑の坂道がさえぎり、もう甕墓は見えない。大きな杉の木だけが墓守のように風に枝がゆれて、何か語りかけているようであった。

 by 松浪 孔 2003.12.3