丹波焼は平安の昔から、 一度も窯の火を絶やすことなく今も燃やし続けている。 古窯の里 篠山の丹波古陶館を訪ねたのは、 5月末の晴れた日だった。 平安時代末期からの古陶が順に奥にならんでいる。 最初の古陶が三筋壷であった。
少し驚いた。 三筋壷はもともと知多半島の古常滑のものとされてきた。 小ぶりで口の立上りがやや外に開き、 胴の三カ所に横筋の文様が刻まれている。 古常滑の国宝 「秋草文壷」と実に形が同じである。 素朴な丹波の古陶の中に端正な三筋の出合いは驚きであった。
三筋壷も秋草文壺も宗教儀礼の祭器として平安の貴族社会には必要であった。 平安の人々に疫病ほど恐れられているものはなかった。 心の苦しみを、 神仏に救いを求めた。 秋草の茂る野辺は、俗世と浄土への境界と考えられ、 貴族たちは死後の安らぎを秋草文の骨壷に安住を託し、 生前に買い求めた。
翌日、三筋壷の古窯跡を訪ねた。篠山市街から南に15キロほど走れば、虚空蔵山が左手に見えて立杭に着く。立杭の外れから三田市に抜ける山道の峠が三本峠で、 古丹波創世紀の窯跡がある。
常滑の名工主従が、 摂津の国を通り何日もかかり三本峠に着いた。 三本峠に窯の煙が立ちのぼると、 村人たちは天を仰いで無事を祈った。 むずかしい成形と焼成の取り組みの中に郷愁の思いも交錯する日々を、 村人や緑濃い丹波の山川が温かく癒やしてくれた。
三筋壷は美術的な物としての壷ではない。 常滑陶工の凝縮された思いが容姿の中に、 はげしく流れているように思えてならない。 階級制度の厳しい平安末期、 たとえ名工であろうと歴史に名を残すことはなかった。 三筋壷は今、静かに来館の人々を迎え、思いを語りかけている。
by 松浪 孔 2004.8.26