白薩摩黄金の「錦手茶わん」

 時間は物の価値を下げる方向にある。この常識が通用しないのが「草庵の茶」の美意識から出た焼物である。少しでも価値を高めるため、茶わんは飾っておかず、使って立派に育てるものだ。資料館でこんな話をしているうち、ふと思い出した。

 早速、小屋から気にかかっていた茶わんを探し出した。記録から昭和五十四年三月とあるから、二十五年前、鹿児島で求めた白薩摩の錦手にしきで茶わんである。

 社用で鹿児島に行った時、天文館近くに、薩摩焼の小さな店があった。戸口を入ると土間で、左手の座敷に白薩摩の茶わんが行儀よく並んで、私を迎えてくれたように覚えている。

 女主人が出てきて話を聞いていると、窯元の奥さんのようであった。「白薩摩の茶わんは使えば使うほど黄金に染まって骨董こっとう的な価値が出ます」。興味ある話と思った。今でも信じ夢を持たせてくれる茶わんである。

 薩摩焼は、十六世紀末の慶長の役で、島津義弘が朝鮮半島から、八十人程度の陶工集団を連れ帰ったことに始まるが、藩主専用の白薩摩胎土は、朴平意が成川村で白土を発見し、白薩摩の自給生産ができたと藩主・家久は非常によろこび朴平意に庄屋役を与え、優遇した。今の錦手や金襴手きんらんでの技術は、歴代藩主が有田や京へ名工を派遣し習得を重ね、優雅な白薩摩錦手が確立したのは、十九世紀の初めと言われている。

 歴代藩主は、薩摩の陶工を厚遇したが、これは名工と言われる一部の人々だろう。薩摩焼作家の鮫島佐太郎は、祖父の代まで朝鮮姓を名乗っていて、半農半陶で差別があった。つぼ屋の〝高麗人”といわれ苦しい生活だったと、昔の話を書いている。

 椀形わんなりの錦手茶わんは、今の季節によく似合う。手にとって眺めていると「因陶以知政」の李朝陶工の歩んだ歴史をたどる思いがする。

 菊の群生文を正面に、余白の微細な二重貫入の白肌が美しさを 際立たせている。そして見込みに少赤味がついてきた。以前、天文館の女主人が言った黄金の錦手茶わんを思い出すのである。

by 松浪 孔 2002.12.20