三筋壺の陶郷、常滑を散策

 昨年の暮れ、常滑を訪ねた。 二度目である。中世古窯の町として、多くの陶工たちの中に商人や僧侶が、それぞれの目的に生きる町であった。

 名鉄常滑線の終着駅、常滑で降りたとたん、その変ぼうに驚いた。立派すぎるのである。線路は駅前の広場を高架で、海に向かって新しい工事が完成間近のようであった。中部国際空港が開港し、常滑は玄関となる近代化の町に変わっていた。

 まず民俗資料館で待望の古常滑を見て、そこから思いのままに歩ばよい。少し遠いのでバスで行った。奥栄のバス停から歩いて、左の坂道を上りきった高台に民俗資料館があった。館内の古常滑のつぼをじっと見つめる。新しい発見を期待するのだが鑑賞眼に弱く、壺作りの情景が頭を回り、中世の暮らしに自問の時間が過ぎる。受付で二冊の研究紀要を買った。これで三筋壺を見る目も変わるかもしれない。満たされた気持ちになった。

 常滑は地表まで、陶土層が露出する丘陵で、雨でもふれば滑りやすく、本当にこわい道ではあったが、天が与えた壺作りの粘土に恵まれた土地でもあった。窯屋のあた小路を歩けば坂道が多い。穴窯は丘の斜面を利用して作られたから坂の町である。今は舗装されているが、かつてはでこぼこ道だったという。

 平安末期は末法の世で、常滑は全国を遊行する勧進聖の宗教活動や経塚造営に、三筋壺や宗教祭器の製作に販売に大きな役割を果たした。流通にも伊勢神宮の貢進の帰り船便に、常滑焼がこの港から、東国などに運ばれた。

 せまい小路の視界のひらけた所に、江戸時代に建てられた回船問屋の瀧田家がある。案内の女性が昔はそこまで海だった、と話してくれた。風向きで潮のにおいのする港町でもあった。かつては商人や僧侶が行き交い、海産でにぎわった中世の商都であったと思う 。

 三筋壺の遠い昔の風情は今は見られない。土地に染みた昔を、歩いて肌で感じる町である。

 by 松浪 孔 2005.2.22