鹿児島市を訪ねたのは二度目である。十一月中ごろの小春日和に恵まれた日だった。
薩摩焼の豪華な白薩摩を開花させるまでには、渡来陶工たちの長い郷愁と苦難の星霜の歴史があった。薩摩半島を山越えし、東シナ海に近い山里に渡来陶工の末裔が今も窯の火を燃やし続けている苗代川の陶郷がある。今は美山と言い、十七の窯元があるが、その中に名窯十五代沈寿官の窯元もある。
美山のバス停から二つの鳥居を過ぎると、広い茶畑があった。そして常緑の深いトンネルの坂道を上りきると、明るく開けて玉山神社に着く。地元の人は「高麗神」と言ってあつい信仰の場である。 かなり歩いたので拝殿に上がり休ませていただいた。その奥に神殿が続く。遠い昔、陶工たちは祖国の神様と向かい合い霊気で心を癒やされたのであろう。
苗代川の陶工は以前串木野の島平に上陸している。言葉も通じず、薩摩藩の庇護も時の政変で行き届かず、不安が孤立となり村民の反目に苦渋の五年間を過ごした。苗代川では村民の同情もあり、半農半陶の生活に芽生えが出たころ、「山の峰を伝って火の玉が飛んで来た。望郷の思いが先祖の霊を呼んだ」。これは八代目の若い窯元の話である。今私がいるこの山に飛んで来たというのでる。
渡来陶工の中に朴平意という主導的な名工がいた。平意は藩に申し出て、朝鮮の始祖人壇君を祭る社の造営に取り掛かった。陶工たちは手を取り合って安住の喜びを確かめ、作陶への意欲を神に誓ったと思う。静けさが喜びの情景を増幅し、目に浮かぶのである。朴平意を陰から支えたのが沈当吉であった。この人も平意に劣らない苗代川の基をつくった名工であったと記録にある。
来た道の途中に窯元の先祖の墓地がある。何か目立つ墓碑がある。銘文から沈当吉と歴代合祀の墓で、沈寿官氏の先祖の墓である。墓前には色鮮やかな野菊が添えてあった。
夕方鹿児島から帰途に着いた。車窓から眺める東シナ海の落日は実にきれいだ。山の上の高麗神は、渡来陶工の精神的な支柱であったと思う。落日の色模様は華やか薩摩焼の歴史の裏の、苦難の昔をそっとのぞくような気がするのである。
by 松浪 孔 2005.12.24

