茶道を学んだわけではないが、いつの間にかわび茶的美意識に染まり、寒い季節が来ると手元において茶を楽しむ一碗がある。
茶碗の美は、触覚芸術といわれる。手に取って眺めると、口辺りの紅斑、胴の中ほどの「池」のくぎ描きが景色として映える。そして高台のカイラギは立派と思う。縮れた粒が激しくすごみを感じる。見込みの紅色は茶をたてると生き返ったように、茶の緑を引き立て語りかけてくる。美の感性が高ぶるひと時である。私はこの茶碗を、「紅斑井戸」と勝手に名付けている。
韓国では、陰暦正月の朝、オンドル部屋で茶礼といって、祖先に感謝する家族の集いがある。利川の池順鐸窯を訪ねたのは、その朝であった。今から三十年前の晴れたさわやかな朝であったと記憶している。
しばらくして展示室に民族服の頑強そうな年輩の方が来られた。この方が池順鐸氏だと私にはすぐ分かった。
池さんは少年のころ、隣家の浅川伯教先生から「朝鮮には、昔から青磁、白磁の立派な陶芸品があった。今は途絶えて無い。ぜひお国のため復興してみないか」と言われたという。池さんは浅川先生を父親のように慕い、生涯の師として高麗陶磁の復興に身をささげた。静かに話される温厚な池さんが、きのうのことのように思い出される。
「少し待って下さい」と中座された。そして本家から持ってこられたのか、目の前に一碗があった。「これはいい茶碗でしょう」。浅学の私はただうなずいてお話を聞くだけであった。「今日は旧正月、来てくれて本当にうれしい」。そして「この茶碗を持って帰りなさい」と言う。驚いて丁重に断ったが、結局お礼を言って抱きかかえながら持ち帰ったのが、この「紅斑井戸茶碗」である。
いくつかの偶然のような出会いがあるように思う。池さんが特別に残した茶碗も流れのあやで、今私の手元にある。人生模様のひとこまを見る思いがする。茶碗の「池」の陰刻は、池順鐸氏の誇らしげな情景が景色としてほほえましく映える。一九八八年、韓国政府は池順鐸氏を人間文化財に推挙し、功績をたたえた。
by 松浪 孔 2006.4.19

