井伊直弼が育てた「湖東焼」

 昨年の四月ごろ、滋賀の彦根と長浜の美術館で湖東焼の作品を見て、これが彦根で焼かれた幻の焼き物であることを知った。幕末のころ、古着商の絹屋半兵衛が、元手のかかる危険な焼き物に手を出し、苦労して夢を果たした湖東焼の生まれた土壌に心ひかれ、五月末に彦根を訪ねた。二度目の訪問である。

 彦根駅の上り線路の裏側を北に小高い新緑の佐和山がある。ふもとの餅木谷に七十年間にわたり、湖東焼の火を燃やし続けた窯跡がある。地元の人に道を尋ねると「ここを上った所だけど今は何もないよ」との返事。人が通るだけ草が刈ってある道をたどって上がれば、窯跡らしい広がりに出た。長い年月がすべて消してしまい、自然に戻ったようだ。藩窯の最盛期には、五十五人の職人が住みつき、汗を流し、生活のにおいが染みた窯場であった。目を閉じた。通り抜けるかすかな風の音に昔がよみがえってくるようで心が和んだ。

 絹屋半兵衛たちが始めた湖東焼も十三年の後、彦根藩窯として召し上げられ、次の藩主井伊直弼によって最盛期をを迎えた。直弼は彦根藩の威信にかけ、優雅な湖東焼に育てあげたが、桜田門外での暗殺の悲報が彦根に伝わると、窯場は騒然となり、職人の多くは離散し藩窯の威容は次第に薄れていった。

 半兵衛も井伊直弼も湖東焼を有田や京に負けない高級品に夢をかけ育てた。やるべきことを成した生涯であったと思う。

 天寧寺に井伊直弼の供養塔がある。直弼は剣術の達人であり、護身の拳銃を懐に抱き不穏な動きに備えていた。桜田門外の変では護身の刀や拳銃に手をかけることもなく、覚悟の死であったと言われている。直弼の血に染まった土は、四斗だる四杯に詰めて彦根に送られ、天寧寺境内に埋められた。立派な供養塔である。

 手元に湖東焼の杯がある。長浜の店で買ったが、どうも贋作がんさくのようである。赤絵金彩を得意とする絵付け師・床山の作品で、本物なら高価で簡単に買えるはずがない。この杯で飲む酒は格別の思いがする。現存する湖東焼の優雅な作品の陰には、窯にかかわる人間の熱いドラマがある。藩窯として召し上げられても茶碗山の白い煙に夢を託し続けた商人あきんど・絹屋半兵衛の心意気がしのばれる。

 by 松浪 孔 2006.6.29