今から三十年ほど前、韓国扶余の店で買った茶わんがある。 扶余は百済王朝最後の古都で日本の仏教文化伝来に深いつながりを持った都市である。落城の哀史を残す扶蘇山城の坂道を下りて、前の通りの向かいに小さな陶磁店があった。片隅に無造作に並ぶ雑器の中に灰色の茶わんがあった。
手に取って驚いた。李朝の熊川茶わんだと直感した。主人に尋ねると、「李朝初期のもので値段はまけることはできない」と言う。ためらうことなく買い求めた。
今、手に取って眺めていると李朝陶工のいちずに生業に励んだ一面が見えてくる。胴の素直なふくらみ、端反りの口作りなどロクロ成形は見事である。
そして、見込みの鏡といわれる円い平らな底部は熊川茶わんに見られる特徴で、 慶尚南道で作られた李朝中期独特の様式とされている。昔の茶人が名づけた鏡は、ロクロ成形の中で定着した形なのか、私には別の意味があるように思えてならない。
李朝は儒教の世で、大陸の思想が庶民生活の隅々まで浸透した時代であった。古代中国では天と地の調和が国づくりの基として、形と数と色で表され、天は円形、地は動かない方形で象徴された。茶わんに見られる見込みの鏡は、天の円を表し感謝の表現として、作陶様式に根づいたものではないかと思う。
茶の湯で格調の高い高麗茶わんの伝世品も、手元の熊川茶わんも、当初は名もない陶工たちによって作られた日常使用の飯わんであった。
わび茶の茶わんから見放されても消え捨てられることなく、飯わんとして伝世の長い歳月に寂寞の美しさを感じるのである。 李朝の当時の人々は、朝夕、食べ終えて見えてくる茶わんの底のくっきりした鏡の輪郭に、ほのかな感謝と安らぎを感じていたのかもしれない。
by 松浪 孔 2008.3.10

