奈良は女の都といわれている。和銅三 (710) 年、元明女帝が平城宮へ文武の役人を従えて入京してから七十四年間の奈良時代に四度、女帝が皇位についている。そして平城宮跡の北側、平城山丘陵まで歌姫町と地名まで残っている。壮大な都造りは元明女帝によって始まった。
平城宮建屋に葺く屋根瓦は数百万枚にのぼると推定され、ほとんどが平城山丘陵に築かれた多くの官窯瓦工場で作られた。また、丘陵には周辺の葬送地としても利用され、私には興味ある平城山であった。瓦窯跡の情報で奈良市文化財課の親切な対応に本当に感謝している。いただいた多くの資料で平城山の歌姫越えを知った。昔から歌姫町といわれている町名の由来も気になる。そんなことを考えながら歌姫西瓦窯跡を訪ねた。
古代の歌姫越えといわれる街道の西側丘陵の斜面に六基の窯が行儀よく並んでいる。今は埋め戻されて、窯の構造は見ることはできない。この窯跡付近だけ整地されない自然の環境が、心を和ませ、瓦工人への思いや歌姫の幻想にしばらくの昔をしのぶことができた。
奈良朝よりさらに昔、仁徳天皇お后の盤之媛が傷心のあまり独り、山城国から今の木津川をさかのぼって奈良の平城山で歌を詠んだ。「つぎねふや山代河を宮上り、我が上れば青丹よし、那羅を過ぎ小楯倭を過ぎ、我が見が欲し国は、葛城高宮、吾家のあたり」。切ない望郷の歌である。葛城氏の娘であった盤之媛の人柄が都の人々に語り継がれ、女の都らしく歌姫の地名に定着したと私は思っている。
歌姫越えといわれていた街道も立派な道に変わって訪ねる人も少ない。瓦窯跡を一歩出れば、昔の丘陵はなく、坂道の新興住宅に整地されて町名も朱雀四丁目と変わっていた。時代の流れに旅愁の風を感じた。
by 松浪 孔 2008.9.3

