民芸品となった煎じ土瓶

 昔から土瓶といえば、炭火でお茶を沸かすせんじ土瓶のことで、火にかけられる土瓶は今ではあまり見かけない。たまたま鳥取駅の物産館で、地元作家の土瓶が目にとまった。つるの手持ちのお茶用の民芸土瓶である。懐かしさとうれしい発見に早速買い求めたが、それは展示品で非売品であるとのことだった。身近な庶民の器が目で楽しむ昭和の民芸に変わって遠ざかっていく時の流れを感じた。

 手元に伊賀焼の煎じ土瓶がある。伊賀丸柱の窯元で買った。今でも直火に強い煎じ土瓶が作られている数少ない産地である。伊賀の丸柱は戦国の世「伊賀天正の乱」で全土が焦土と化した怨念おんねんの歴史がある。その風土の窯で焼かれた桃山の茶陶にはすごみがある。その後中断したが、宝暦年間(一七五一~)に再び復興した。土瓶は復興伊賀の民衆の願いの中で生まれた癒やしの民芸で、今も素朴な丸みの作風は変わらず、二百五十年の伝統の味を感じさせる。

 思い出深い土瓶に、薩摩焼の茶家ちょかがある。薩摩では、土瓶に小さな三つの足をつけて「茶家」と呼んでいる。苗代川や竜門司の窯場で、黒薩摩と呼ばれる日常雑器の中に古風な品格を持っているのが茶家である。茶家の前足は注ぎ口の真下ではなく、少し右にずらして注いだ後、床を汚さない心配りが奥ゆかしい。江戸後期から「薩摩土瓶」として大阪でも愛好された記録があり、薩摩陶工の用に対する心遣いが今も受け継がれ、心温まる思いがする。

 今、土瓶を眺めていると次々と思いがわいてくる。戦前戦後の貧しい住まいで、愚痴、我慢、小さな満足など、庶民の生活のにおいを部屋の片隅で見てきた器であった。び茶の高価な名品に比べ、名器といわれる土瓶はない。欠けて用を足さない土瓶は捨てられた。 うだつの上がらない宿命の土瓶に、手を添えてでていたわりたい気持ちになるのである。

 by 松浪 孔 2009.5.13