陶郷の守り神、高麗媼

 三川内みかわち焼の献上唐子絵には何かキラリと光る歴史を感じる。長崎県平戸の松浦資料博物館の「史都平戸」によれば、「慶長の役に出陣の松浦鎮信公が韓人男女百余名を連れ帰られた中に巨関こせき高麗媼こうらいばば (名は累) の能川こもがいの陶工がいて、公は中野村に窯場を開き、巨関は特に藩籍に入れて今村姓を名乗らせ、高麗媼は唐津の椎の嶺に移り里人中里茂右衛門に嫁した」と記述されている。藩窯平戸焼の始まりである。その後、巨関三之丞親子は領内に白土を求め、最後に落ちついたのが三川内であった。

 早春の好天に恵まれ朝早く家を出て、佐世保線三川内駅に着いたのは昼過ぎたころで無人の小さな駅である。駅の路線の向こうにうつわ歴史館と三川内焼伝統産業会館の大きな建物が見える。窯元集落の皿山は南に見える山裾で、歩いて行くには無理がある。幸運にも遠来の私に会館の方が皿山に案内してくださった。

 窯元集落を見下ろす岡に高麗媼を祭神とする釜山神社がある。高麗媼が当初、平戸から唐津の嶺への旅は、岸岳崩れ陶工への女のおもいの一念があったと思う。夫の死により、一子茂兵衛を連れて三川内に移り御用窯の創始に尽くした。高麗媼は亡くなるとき「ひつぎを燃やして煙が天に上ったら骨を朝鮮半島に返してくれ、地をったらこの地に埋葬してくれ」と言い残した。遺言通りこの地に埋葬され陶郷の守り神となった。小さな坂道を下りて高麗媼の末裔まつえいにあたる15代の窯元を訪ねた。当主は無形文化財として献上唐子絵の継承者である。ちょうど、唐子絵の絵付けのときで細かい手描きの動きを後ろでそっと見せていただいた。

 翌日、平戸に向かうバスの中でふと思った。唐子絵の童子と戯れるちょうは、天寿の無心な高麗媼の精ではないだろうか。平戸瀬戸の潮の流れは、遠い望郷の昔を今も流れ続けていた。

 by 松浪 孔 2011.4.24