信州高遠 (長野県伊那市) は昔、江戸城大奥で6代将軍家宣の側室月光院に仕えて権勢を振るった絵島が、山村座の芝居見物に端を発した「絵島生島事件」で遠流の刑となり、28年の幽閉の生涯を終えた城下町である。絵島を預かった高遠藩が幽閉した囲い屋敷が現存しており、罪人を日蓮宗日号をいただく仏にした高遠の昔を感じたくて10月9日、晴天に恵まれ高遠の町を訪ねた。
蓮華寺の裏山に絵島の墓がある。 位階の高さを感じる立派な墓に、絵島の信仰の深さが伝わってくる。長い年月は墓を風化し、尋ねる身寄りもなく忘れ去られていたが、大正5年、田山花袋によって発見され、多くの人が訪ね、媼となって果てた絵島を偲んで供養している。人は二度死ぬといわれている。一度死んだ絵島は生き返って町の人の記憶の中に住みついて生きていた。
絵島が江戸を発つ折に詠んだと伝えられている歌がある。 「浮き世にはまた帰らめや武蔵野の月の光の影も恥かし」。月の光のとは月光院を指し、絵島は大奥天英院との派閥の争いでもあった月光院の身代わりとして旅立つ別れの思いを歌に託したという。町のそば屋の主人が酒を飲みながら話してくれた。
城跡近くに絵島が幽閉された囲い屋敷がある。武家屋敷の構えで奥に8畳の絵島の居間がある。硯も書くことも許されず、夜は一人、虚空と語り虚空に遊んで仏となった媼がこの屋敷に見え隠れする。後年、下女に「もし相果て候はば日蓮宗にて候」と言っていたという。望み通り遺体は蓮華寺に土葬された。月光院の嘆願で死罪をのがれた33歳の流人絵島の半生は、高遠藩の温情で仏門に帰依し時折、寺を尋ねている。孤独を救ったものは、下女が伝える町の四季ではないだろうか。
by 松浪 孔 2014.11.5