老いの自分を見つめる

 北風の吹く日、老老介護で支え合う老夫婦の支えの一つが崩れて、別居の寂しい日がきた。それは私自身の思うようにならない焦燥と不安の老いを見つめ、穏やかな明日を探し求める時でもあった。日頃は見向きもしなかった般若心経入門や徒然草の本に救いがあるかもしれない。中身の難しさをかみしめながら少しずつ読み続けた。

 徒然草第82段「すべて何も皆、事のととのほりたるは、あしき事なり。し残したるをさて打ち置きたるは、面白く生き延ぶるわざなり。内裏だいり造らるるにも必ず、作り果てぬ所を残す事なり、と或人あるひと申しはべりしなり」ー。何事においても完全に整えるのは、その仕事の命が終わることでよろしくない。やり残しは仕事の命を将来につなぐ方法なのだ、と心の持ち方を昔の人は言っている。

 日光東照宮の陽明門を支える12本の柱の背面の1本が「逆柱さかばしら」と言われている。彫刻の図柄が他の柱の図柄と上下が逆になっている。飛騨工ひだのたくみの作といわれて立派に作り上げたが、完全作ほど魔がさし、災いを避けるため、あえて逆さ柱にして不完全にした。完全作はそれ以上の進歩がないから、自分を否定し限りなく精進を続ける心のあり方を教えてくれている。 今日を大切に生き明日につながる自分を見つめよ、と言っている。

 近くの家に伺うと、玄関にある円相図が迎えてくれる。自分を素直に見つめる時、老いは何にも要らない。思い出だけでいい。老いの中の死を怖がらず生き続ける永遠の姿が私の円相図である。今、円相図に思いを乗せて目を閉じ雑念を払うと小さな安らぎが見えてくる。

 おばあさんは物忘れを「仕方がない」 と、 よく言っていた。私は一生懸命やっているのに・・・と言いそうな横顔を今、思いしのんでいる。

 by 松浪 孔 2020.3.19