一人では生きていけない

 人は一人では生きていけない。長い人生には何度か苦境を支えてくれる出会いがある。 その支えを意識するのが生きがいというのだろうか。そして人はすべて老いがくる。身近な出会いや楽しみを逃さずとらえれば老いの支えとなる。苦境を生き抜いた、茶人でもある幕末の井伊大老の影が今、浮かんでくる。

 1853 (嘉永6) 年、浦賀にアメリカの黒船が来航し通商貿易を迫った。鎖国から目がさめて、攘夷じょういか開国かの難局に幕府の要職にあった彦根城主、井伊直弼なおすけの心中は言語に絶する厳しいものがあった。1858 (安政5) 年、数え年44歳で大老職につくや、通商の勅許ちょっきょを得ぬまま日米修好通商条約に調印する。歴史をつくった決断力はどこから生まれたのだろうか。禅の魂か、井伊大老の表に出ない裏をたどれば、一人の禅僧俊龍和尚が見えてくる。

 俊龍和尚は香美町御崎の農業、矢引六郎左衛門為友の十二男として1801 (享和元) 年に生まれた。壇ノ浦合戦で敗れ住みついた平家一門の末裔まつえいにあたる。彦根清涼寺で俊龍和尚の講義を井伊直弼が聞いた出会いが機縁となり、後に井伊大老の特請で世田谷豪徳寺の住職になってから大老は度々、豪徳寺を訪ねた。

 品川東海寺での開港条約の対応、通訳は俊龍和尚が引き受けた。アメリカが中国の女性を通訳とし、まず中国語に改め対応。 大老の信任厚く、心静かに開国通商を力説し、元気づけて生涯大老を支え続けた。

 おやつの時間に茶をてる小ぶりの茶碗ちゃわんは、米子市淀江町中道に住んでいた関本忠平衛翁が愛玩していたもので、小ぶりが好まれた先人の控えめな茶事がしのばれる。 小ぶりの茶碗は清水焼だろうか。京都を訪ねた遠い日々の余情が午後の私を支えてくれる。

 by 松浪 孔 2023.9.3