米子の高齢者住宅に転居して半年が過ぎた。窓越しに見える町並みには人影も子どもの遊びもなく、人情の昔の昭和はない。部屋にこもっているので四季も感じない。 12月の寒空の向こうに正月が見えてくる。
正月といえばまず屠蘇である。屠蘇とは殺されてもよみがえると読めるが、榊莫山著「莫山美学」によると、中国の唐に孫思邈という仙人がいて、年末がくると西域の薬草を手にして、山中の井戸に放りこんだ。
そして元日の朝、薬味ただよう井戸水を村人たちに「さあ飲め飲め、1人飲んだら一家年中病なし」と。いつしかその水を村人たちは屠蘇と呼びだした。仙人のすみかが「屠蘇庵」であった。 薬水の感謝の言葉が屠蘇とは滋味深く、これに代わる言葉はない。
辞書によると、魏の名医華佗の処方で1年の邪気を払い寿命を延ばす年始に飲む薬で、日本では平安時代から行われていたという。海を渡って平安の昔から正月の祝儀として、庶民にも定着した日本固有の文化と思う。
正月が近づくと私にはいま一つ仕事がある。明治生まれの父親が丹後大地震で家族を守ってくれた大黒さんを、年末には神棚から下ろし一年のほこりをふいていた。私の小さな信仰心が胸のどこかに宿って暦を見ながら1人で神棚の掃除を習慣として正月に備えた。
孫が子どもの頃、元日には家族5人で屠蘇を年少の孫から「おめでとう」と注いで、子ども、年寄りの順に飲み干した。屠蘇の心地よい苦みが五臓六腑に染みて、体の邪気を追い出し家族の息災を味わったものである。
今年は小さな1人暮らしの住宅で、勝手が違う正月となる。酒は買ってきた。屠蘇散がくれば欠かさずやってきた自得の正月ができると思う。
by 松浪 孔 2025.1.13