能登半島の先端に珠洲市がある。昭和三十六年、地元の研究者によって古い窯跡が中世の古窯と確かめられ「珠洲焼」の名前で、日本六古窯に次ぐ珠洲市が古窯の町として浮上した。
九月下旬、古窯の珠洲市を訪ねた。能登は恐竜が頭を上げて日本海に突き出したような半島である。交通は思ったより不便であった。朝早く金沢駅から乗り継いで穴水まで行き、そこからバスで珠洲の蛸島に着いたのは昼前であった。
穴水から乗り合わせた婦人に珠洲焼資料館で再び会った。地方にはめずらしく立派な資料館である。つぼ
壷、甕や出土した宗教用品、暗灰色の古陶は、よどんだ冬の空を思わせほかでは見られない個性を感じる。先ほどの婦人が「この時代の多くの人は、牛馬のように苦役を強いられ人間らしい扱いではなかった」と何気なく語りかける。珠洲焼の誕生は平安末期の荘園の時代で、このころ丹後の山椒大夫の説話がある。テレビで見た「山椒大夫」は、母子四人が直江津で人買い商人にかどわかされ、安寿と厨子王の姉弟が山椒大夫の屋敷に売られる筋書きであったが、珠洲焼にも中世社会の暗部が染みついているのかもしれない。
珠洲市は昔、京の九條家の荘園で若山荘といった。土地の有力名主は荘園の年貢をかせぐ振興策として時代が求める焼き物を始めた。自ら窯元となり農民平民を使い、流通は比叡山の神人、白山宮の商人たちが行ったと言われている。古陶に見られる堅い燻し焼きは、須恵器の技術と経験をもつ越前の工人を、回船業の商人が珠洲の港に連れてきたという一説もある。
この珠洲焼も戦国時代に入る流れの中、若山荘の衰退に合わせ窯の火も消滅した。珠洲焼を作った工人たちは、能登の地に生まれ生業に幾代も励んで土に返り、名を残すことなく消えた。三百五十年間の中世を語る証人が、珠洲焼の古陶であると思う。美術骨董的な鑑賞の表と、 工人の苦役の汗で作られた暗い裏側の古陶になぜか感銘を受けるのである。
帰りのバスから眺める日本海は波一つない。海の神が昼寝でもしているような能登の海を見ながら帰途についた。
by 松浪 孔 2006.11.10