金沢の名陶といえば九谷焼である。古九谷の青手といわれる濃く暗い三彩で塗られた皿は九谷焼独特のもので、この加賀でしか作れなかったと信じている。
今、江戸前期の色絵磁器「古九谷」が佐賀有田産ではないかと産地をめぐって論争が続けられている。各地の調査で地元九谷説は分が悪い。伝世古九谷の名品の謎が格調の高さを更に深めているように思える。心の片隅に昔の九谷焼の里に触れたくて、十月初め小松市近郊の九谷陶芸村を訪ねた。
九谷焼の始まりは明暦年間、加賀藩前田家支藩の大聖寺藩の古文書集「秘要雑集」に創始の様子が収められている。「大機公御代に後藤才次郎を肥前の唐津へ被遣。陶り御ならは被成。妻子不持者には伝授せず。仍て唐津に於て妻子持ち、伝授の後妻子を捨て逃げ帰る。其後九谷に於てやく。ケ様の儀に於ても思召有之ての事なるべし」
後藤才次郎は陶技の習得を見計らって姿を消した。妻子とはつらい別れであったと思う。窯場では極秘の技を盗んだ回し者とされ鍋島の侍に追われる立場となり、大聖寺に帰っても身の危険を感じ山奥深く逃げたという。
九谷古窯の窯焚きは後藤才次郎ではなく、田村権左右衛門という京都から招いた大聖寺藩の陶工であったと言われている。私は昔の佐野窯があった陶芸村にはじめて立ち寄った。立派さに驚いたが昔をしのぶ窯はない。
古九谷の重厚な名品は雪深い九谷村で焼かれたのか。一説には大聖寺藩邸内と言われているが、裏付けるものがない。古九谷の技の伝承は百年後の江戸後期、九谷村の残り火が吉田屋窯に継がれ加賀藩内各地に再燃した。「再興九谷」といわれ現代九谷焼の基となった。
隣村の窯場風景が九谷焼資料に書かれている。窯場の近くは必ず坂がある。粘土をのせた荷車はよく坂の途中でえんこした。荷車が馬車に代わってもよく坂の途中で馬車は止まった。こんな時馬方は馬の腹の下で火をたいた。馬はびっくり仰天跳び上がるようにして坂を駆け上った。 明治期の窯場の寸描であろう。
立派に変わった佐野の陶芸村に、昔の四尺幅ほどの曲がりくねった坂道の茶碗山を思い重ね合わせ、時を惜しみながら帰りのバスを待った。
by 松浪 孔 2006.12.15