ふと思い出すと気になり探し出した半筒の赤絵茶碗。胴が窓枠と字枠に区切られ窓から露地の草花を眺める図柄であり、字枠には、無楽有楽の四文字が丸の中に一字ずつ書かれて景色となっている。平成十三年の秋、犬山市の有楽苑を訪ねた時買った茶碗である。
有楽宛の茶室如庵に連なる旧正伝院書院の縁側で一服の茶をいただき茶匠有楽の茶境をしのばせる遺構にふれ、心くつろいだ一時を思い出すのである。
有楽は織田信長の実弟で名を源五郎長益といった。その生涯は波乱の「逃げ」に徹し茶を楽しんだ人である。本能寺の変では当夜、信長の嫡男信忠と近くの妙覚寺に宿泊していた。本能寺が燃え上がるのを見て、かくなるうえはと信忠に父信長を追って切腹を勧め、自身は安土に逃げのびた。大坂夏の陣でも姪の淀殿が大坂城の炎の中で消えた落城を京都の二条から眺めていた。常に一歩下がって戦火を巧みに逃げ一服の茶の湯に楽しみを求め自らの茶道観をつくった茶匠である。
赤絵茶碗の「無楽」の文字は有楽以前に名乗っていた号である。天下人となった豊臣秀吉は、毒にも薬にもならない茶人無楽を呼んで「無楽とは寂しい。楽しみは多い方がよいからこれより有楽と名乗るがよい」と号を与えたと言われている。無の静謐の中に楽しみを生み出す無楽の号に捨て難いものがあったが秀吉の命とあれば逆らうことはできなかったと思う。
有楽は武家を捨て京都建仁寺の末寺正伝院を再興して隠居所とし、そこに茶室如庵を建て風雅を貫き幸福を自身でつくった。茶室如庵はその後、有楽の数奇な運命の生涯をたどるように各地を転々とし有楽の生まれた尾張の故郷に帰り安住の地を犬山に得た。
犬山には犬山城主成瀬侯の御庭焼として、古い伝統を持つ犬山焼の尾関作十郎の窯元がある。作十郎作の赤絵茶碗を手にとって眺めていると、有楽と如庵にちなんだ思いがわいてくる。茶碗の無有楽の四文字に茶匠有楽は今どんな思いか知るすべもないが、本当は「無楽」に執着だ、といいそうな気がする。謎を問いかけ有楽の茶の湯をしのぶ赤絵茶碗である。
by 松浪 孔 2007.1.26

