姫谷焼古窯跡を訪ねる

 福山市の北方へ二十㌔ほど行った山里に姫谷という集落がある。江戸時代前期にこの姫谷で色絵磁器が焼かれた。地名から「京の陶工が公卿くぎょうの姫と恋をし駆け落ちをしてこの地で色絵を焼く」とか「キリシタンの陶工が九州から逃れてきて姫谷に窯を築いて焼いた」と多くの資料に伝説として今に伝えられている。

 四月の天気のよい日に古窯跡を訪れた。東城街道といわれる国道182号の道路脇に、県の史跡として管理されている。国道から緩い坂を下ればすぐ窯跡がある。山の斜面が開かれて背後の松の木が窯跡を囲むように見守っている。窯の右の斜面に墓石が一つ、窯跡に寄り添うように立っている。墓誌の俗名市右衛門は、加茂村正福寺の過去帳から焼き物師の墓と伝説が立証されている。

 今泉元佑氏の「鍋島」によれば、京の陶工高原五郎七は加藤清正が朝鮮から連れ帰った陶工で、大坂夏の陣の後、肥前の有田に移り青磁物を焼いた名工であった。有田の名門初代柿右衛門の師は五郎七と言われている。五郎七はキリシタンの嫌疑を受けて、清正公を頼って肥後に逃れた。高弟の市右衛門は、清正公の奥方が福山藩主の妹君である縁で福山に逃れ、姫谷で暗い影を背負いながら色絵磁器に生涯を終えた。色絵の逸品を世に残し姫谷焼始祖といわれる焼き物師であった。

 姫谷焼の伝世品は、ほとんど個人所蔵なので見る機会はなかなかない。図鑑「姫谷」で見る伝世品は、清楚せいそな日本画的な余白を生かした色絵で、どこか柿右衛門と似ている。初期色絵を完成させた名工の品格を感じる。

 窯跡を近くの家で尋ねた時「血でかいた焼き物の跡なら」と職人風の方が教えてくれた。血の一言が重く頭に残った。昔、街道を行き来する旅人や村人が、窯場に立ち寄り物珍しく赤絵を眺める年寄り衆に市右衛門は説明するのが面倒くさくて、これは血で描いた色だと言ってしまった。信心深い当時の村人は本気で思いこみ、赤絵の伝説をつくったのであろう。

 しばらくの時が過ぎた。キリシタン迫害に巡り合った悲運の名工の姿が、長い風雪に耐え忍ぶ墓石に象徴されているようで惻隠そくいんの情が胸にせまるのである。綱で仕切られた窯跡をよく見渡すと、墓前の筒に白い生花が供えてある。静まり返った窯跡にさわやかな風を感じた。

 by 松浪 孔 2007.6.24