飯洞甕下窯を訪ねて

 唐津市からバスで国道202号を二十五分ほど、伊万里の方へ走れば昔の北波多村に着く。左手に見える小高い山が岸岳である。

 岸岳は肥前松浦党の領袖、 波多氏の居城で、松浦党の倭寇が朝鮮半島で交易し、十五世紀ごろ、朝鮮北部の咸鏡道から連れ帰った陶工たちが岸岳山ろくに窯を築いた。飯洞甕はんどうがめ下窯は当時を伝える最古の登り窯である。登り窯は山に入って間もなく杉木立に囲まれた斜面に、国史跡として大事に保護されていた。金網越しに見る長い歳月に耐えた窯跡は、落ち葉のこけの窯床が廃寺の参道のように寂寞じゃくまくの美しさを感じさせる。通り過ぎる風音は何かを伝えたい願いのようだ。城主波多氏のあつい保護を受け、生活雑器を焼いた陶工たちの思いが窯跡に染みているように思う。

 太閤秀吉は大陸制覇を夢見て、波多氏の所領であった肥前名護屋に朝鮮派兵の基地をつくった。文禄元 (1592) 年、まず西国大名に朝鮮出兵の軍令が下りた。波多氏も鍋島直茂の配下に入り、四月には朝鮮に上陸し、善戦しながら北上し、やがて過酷な冬を経験する。 鍋島勢は戦いより飢えと寒さに凍傷、鳥目などをわずらって悲惨なありさまであったという。

 戦地とは逆に名護屋城下では在陣の秀吉や大名たちは、茶会など連日優雅な日々であったと記録にある。波多親氏夫人は領内でも評判の美人であった。太閤秀吉の目に留まり、城内で夫人への邪恋が戦地の波多氏に暗い動揺を与えた。そして文禄二年五月、波多氏に無情の改易処分が下された。理由は「臆病おくびょうを構えた」であった。お家断絶に波多氏家臣や陶工は無念の思いで窯を捨て離散した。じっと窯跡を見ていると、遠い昔の歴史の裏側を控えめに語る古窯に、惻隠そくいんの通り風が肌に感じるのである。

 by 松浪 孔 2008.7.28