10年も前、ことぶき学園の鳥取会場で、野津龍先生の「因幡の麒麟獅子舞」の公演で、今は宇倍神社(鳥取市国府町)に伝承される麒麟獅子舞の歴史を知り、古代中国では霊獣の最高位の麒麟についても学ぶことができ、感銘を受けたことを昨日のように思い出す。
たまたま秋の西本願寺特別拝観の日帰り旅行があり、唐門の麒麟彫刻を拝観できることが分かり参加した。
京都西本願寺の唐門は、唐破風の屋根と黒漆塗りに彩色彫刻と飾金物を施した豪華な四脚門で、秋の陽に映えて重厚さに感動した。正面梁の間に麒麟の彫刻があり、頭は龍に似て威厳があり、優しい鹿の姿態が私の心に刻みつける。そして扉の唐獅子彫刻は悪党に睨みをきかせていて、まさに桃山時代の建築工芸の粋で中国古代の孔子伝に出てくる仁獣の思いが宿る唐門に、時のたつのを忘れさせてくれる。
麒麟は鹿に似て角が1本あり、生き物を食べず、生えている草を踏まないとされ、その優しさ愛情の深さから仁獣とされてきた。
集英社の「孔子画伝」に孔子を懐妊した母、顔徴在の家に麒麟がやってきて玉書を口から吐き出し、聖人の誕生を予言し祝福する聖蹟図がある。「王者至りて仁なれば則ち出ず」。儒教の仁によって安穏な世を治めた王者を祝福するかのように出現すると信じられた麒麟が古代中国から伝わる麒麟信仰である。
正月からの豪雪、大震災、台風の自然に、人間がいかに無力であることを知らされた年であった。そして国内外の難局に迷走する政治に、仁徳で秀でる救国の明王を祝福する麒麟は今の時代にも通じる明かりのように思う。
閉ざされた唐門に今も多くの人たちが集まる。仁獣麒麟の下を通って行く貴人、通られない凡夫たちが憧憬の明かりを求めて集まる唐門の遠い昔の情景が目に浮かぶのである。
by 松浪 孔 2011.11.19

