葛城山を左に見ながら玉手駅を北へ少し行ったところに、吉祥草寺 (奈良県御所市) がある。1370年前、大和のこの寺で役小角は誕生した。修験者や山伏の加持祈祷の山寺が頭に浮かぶが、田舎のやさしいお寺である。境内の写経道場に役小角3歳の自作像と、母君白専女像がまつられている。山岳信仰の大山や三徳山を修験道の歴史に名をとどめた開祖が役小角で、間近に拝むのは初めてである。長頭巾をかぶった痩身の像は、葛城山で木の実を食べ、尾根をかけ回り呪術を身につけた山岳修験者の姿である。どこか役小角に親しみが匂うのは隣の母君像が見守っているせいだろうか。
役小角の利生記に、少し気になる記事がある。「大和国葛木上郡茅原郷に役の公民一人のむすめあり。幼より父母に孝をつくし容心とも艶美にして、もろもろの業につたなからず、 たぐい稀なる賢女なり。 頃は人皇三十五代舒明天皇五年三月帝茅原の里へ行事あり。その後かの女、王の如き男子を出生―この子額に小角あり。故に小角といふ」。名を役優婆塞といい、貪婪をきらい仏道に帰依して幼少期を生母白専女の手で育てられた。
役小角38歳のとき、修験道の本尊を求めて吉野の大峯山に念じ修行した。千日苦行で湧出岩から「忿怒の相」の蔵王権現を感得された。それは三徳山投入堂の本尊蔵王権現の左足で地を踏んばる姿で、その形相は悪魔には恐れを抱かせ、衆生には内に秘めた慈悲の心をあらわした仏の姿といわれ、役小角ご自身の修験に生きた姿ではないだろうかと思う。
住職の話では、役小角最終の修験の地は箕面市の瀧安寺で、ここから空へ飛び去ったといわれ、終焉の墓はない。飽食美食に染まる今の時代に修験道の「知足」の含蓄を今、考えさせられる思いで吉祥草寺をあとにした。
by 松浪 孔 2012.6.6
