大化の昔から土佐国は、伊豆や佐渡、隠岐など都から遠い遠流の国であった。瀬戸内から土佐に入る陸地は、険しい四国山地の幾重もの深い渓谷を山越えした向こうが、南国という四国の孤高の高知を土讃線の山越えで実感した。高知は初めての旅である。駅前は整備され、広い道路は電車や車の車線が南に走っている。この道路を15分ほど歩けば大きな交差点がはりまや橋と教えてくれた。
「おかしなことよな播磨屋橋で坊さんかんざし買いよった」。ペギー葉山が歌う『南国土佐を後にして』の元歌である。今、はりまや橋は繁華な交通の中心地で地名にもなっている。近年、交差点の片隅の堀川に朱塗りのかわいい反り橋が藩政時代の風情を再現させていて、観光の名所となったはりまや橋は、城下の豪商播磨屋と櫃屋との間にかけられた私橋であった。幕末のころ、竹林寺南坊の修行僧純信がこの村の鋳掛屋の娘お馬に、播磨屋橋で簪を買いよった。二人の禁断の恋が世の噂となった始まりである。 寺の務めを捨てて二人は韮生郷から出奔し、讃岐の金毘羅町で捕まり出奔と破戒の罪を犯す情事事件となった。
純信が修行した竹林寺は、はりまや橋からバスで20分ほどの小高い五台山にある。 多くのお遍路でにぎわう古刹で、純信の住んだ南坊は明治初めの廃仏毀釈の難で今は無い。信者の絶えない香煙の中に立てば、人の世の無常が湧いてくる。 そして純信とお馬のその後が気になる。
山川出版社の「高知県の歴史」によれば、純信は川之江で寺子屋を開き門人に慕われ東川村 (愛媛県) で家族を持った。お馬も須崎で当地の大工と所帯を持ち、子にも恵まれそれぞれに幸せな生涯を終えたと伝えられている。情事事件を簪で軽く証してしまう諧謔に南国の大らかさを感じた旅であった。
by 松浪 孔 2012.12.8