幕末の攘夷か開国の国論の渦中に、命をかけ不退転の開国を進めた彦根藩主・井伊大老を、陰で幕政を補佐したのが豪徳寺住職の俊龍和尚であった。本紙1月16日の「海潮音」で兵庫県香美町香住区御崎に平家集落があり、江戸時代末期の禅僧、俊龍和尚生誕の地で、隣村の龍満寺に小僧として出された伝記を知った。そして香美町生涯学習課からいただいた資料「俊龍和尚」で和尚の生涯を知り、井伊大老との出会いから別れの宿命的な深さを痛感した。
4月2日、余部鉄橋の麓からやっと自動車が通れる断崖をはうように岬に走ると、集落の広場に辿りつく。「御崎」の大きな石碑が集落の歴史を教えてくれる。春の潮風を大きく吸い込んで、俊龍和尚の遠い昔の海を偲んだ。
壇ノ浦合戦で敗れた平家の一艘が日本海を漂流し、伊笹岬の沖で御崎からのぼる一条の煙を頼り、そこで一行7人は高野聖の修験者に助けられて御崎に土着した。御崎の平家伝説である。俊龍和尚は平家の末孫矢引家の十二男として生まれ、資料によると「人相が悪く」役に立たない子供であったという。御崎の自然は子供にとって厳しい環境であった。和尚は苦境の中で共感性を学んだと思う。
天保元年、和尚30歳のとき、彦根の清涼寺で偈頌の講義をした。当時16歳の井伊直弼も出席した青年僧の非凡な僧に深く印象を受け、これが機縁で後日、江戸の豪徳寺の住職となり、井伊大老と肝胆相照らす師弟で結ばれた。
万延元年3月3日、桜田門外の変で井伊大老は痛恨の46歳の生涯を終えた。大老の血に染まった土は四斗樽4杯に詰めて彦根の天寧寺に送られた。この慰霊を行ったのは俊龍和尚と思う。人は苦境に耐えた分、成長する。和尚の胸に迫る回想は幼少の御崎の自然から学び育ててくれた感謝の思いではないだろうか。
by 松浪 孔 2014.5.18