沢庵和尚ゆかりの寺へ

 江戸時代前期、幕府の宗教政策「紫衣しえ事件」で敢然と抵抗したすごい禅僧がいた。たくあん漬けの沢庵和尚である。和尚は但馬の出石 (現・豊岡市) で生まれた。遠い伝説のような和尚を但馬で知りたくて3月末、国道9号を東へ、出石の和尚ゆかりの宗鏡寺すきょうじを訪ねた。

 和尚はこの寺で禅を学んだ。37歳のときには京都大徳寺の153世の住持に出世したが、出石の寺も大事に守った。宗鏡寺の奥の高台に和尚の住まいの投渕軒とうえんけんがある。大寺の住職になっても度々帰郷し、投渕軒で鍋一つの枯淡な生活に安らぎを求めていた。名利を求めない和尚の禅の原点を見る思いがする。

 紫は古来、高貴な色として尊ばれた。紫の法衣は僧侶の最高の名誉なことであった。寛永4 (1627) 年、御水尾天皇が与えた紫衣着用の勅許を、幕府は幕府法度によって無効といって大徳寺に出世したこれまでの15人の僧から紫衣を取り上げ、追放する挙に出た。幕府が朝廷に仕掛けた争いであった。沢庵は幕府に抗弁書を出し抗議したが、この抗争で沢庵は出羽国へ流刑され、御水尾天皇は退位してしまうという「紫衣事件」である。流刑地の出羽国では藩主土岐頼行は、助言を仰ぐなど沢庵を祖父の如くといい尊敬していたという。

 太閤秀吉は辞世の歌に、夢のまた夢とはかなく回想している。 沢庵の辞世のも「夢」であった。人生を「諸行無常」と説く仏の教えを沢庵は夢といった。限られるこの世の命に惑わされない悟りの心境を、夢の一字にのこして73歳で示寂した。

 沢庵の心を宿す宗鏡寺の帰りに鐘一つついて帰れ、とあったので一つついてみた。大きく重い鐘の波は渦をまいて私から離れない。初めての体験である。雑念を洗い流して細く入佐山へ消えて行った。

 by 松浪 孔 2015.4.25