足助の馬頭観音を訪ね

 江戸時代、中山道など五街道の物資の運送は、伝馬役が宿場間を任されていた。伝馬とは別に中馬ちゅうまと呼ばれる運送の農民組織があった。 中山道木曽路の脇街道として、三河湾でとれた塩を信州へ険しい山越えの運送は、馬稼ぎ農民による中馬に頼っていた。1人で3、4頭の馬を引いて、100貫の荷を積んで中馬の中継地の飯田では、日に千頭の馬が出入りしたという荷馬の道が中馬街道である。

 3月末、岡崎からバスで1時間、香嵐渓の絶景で観光客が絶えない足助あすけを訪ねた。 中馬街道最初の宿場で足助川に寄り沿った古い家並みは明治の昔を感じさせてくれる。川下の山が迫った崖下のお堂に、馬頭観音がまつられ、そばに馬を摂待した水槽もある。馬頭観音は荷物を運ぶ馬の守り神で、忿怒ふんぬの怖い顔で諸悪を粉砕する仏であるが、はじめて拝んだ足助の馬頭観音はほほ笑んでいた。

 明治の文明開化で街道も荷馬から馬車運送に替わり中馬の昔の役割は終わった。この観音はそのころ、馬車組合の人々によって寄進されたと聞いている。「馬が驚くから優しい観音さん」の組合員の思いが、路傍からほほ笑みかける異例の馬頭観音になったと思う。この街道筋には中馬が残した馬頭観音が数多く、 難所の災難も多かった。祈りを終え、馬に一声かけて旅立つ中馬の昔が心象の中に見えてくる。

 川下から来た年配の婦人が「オシドリがいますよ」と、さわやかな香りを残して過ぎ去った。見下ろす川面に小さくオシドリが流れと遊んでいる。人は歩いて考えて川を見て生きてきた。遠い昔のことでもないのに戦後から成長の変わりの早さに中馬の古道から馬も人も消えてしまった。そろそろお寺で安息されてはと問いかけてもお堂の馬頭観音は、居心地が良くて休むひまなしとほほ笑んでいる。

 by 松浪 孔 2015.11.21