侘びの茶室「待庵」

 天正10 (1582) 年、本能寺の変から11日後には京都大山崎で、羽柴秀吉は明智光秀を討ち取り信長後継者の一人として名乗り出た年である。大山崎の戦いで勝利した秀吉は、この地に千利休を茶頭に召し抱え、利休屋敷を建て茶室を造らせた。現在の茶室待庵は天正13年、利休に死が命じられたときに、利休屋敷の待庵も取り壊しの悲運にあったが、その後、妙喜庵に移築されたといわれている。

 3月下旬、大阪に住む長男が大山崎の待庵に案内してくれた。山崎駅前に禅寺の妙喜庵がある。妙喜庵に隣接された待庵は、春の日差しに南向きのにじり口と連子窓が開かれて間近に茶室を拝観できる幸運に恵まれた。 二畳隅炉、すさの土壁の囲い、下地窓の明かりで黒ずんだ室床が墨絵のように目に映る。余計な飾りは無い。薄暗さが茶室の緊張を作り上げているように思う。

 利休は近くを流れる桂川を散策し、漁師の腰に下げた魚籠びくに”美”を見つけ、請いうけて室床の花入れにした。この花入れ桂籠かつらかごと呼ばれ、後に吉良上野介の茶道具となっている。元禄15年の赤穂事件で主君のあだ討ちを果たした上野介の首、包みの中は利休遺愛の花入れ桂籠であったといわれている。

 壁をくり抜いた簡素な躙り口は、利休が考えた独特の茶室様式で、くぐりという日常を変質させる結界にびの深さを感じる。秀吉の気の高ぶりを静め、はやる心を焦らず時機を待つ。待つ重みを待庵の侘び茶は静かに語り癒やしたと思う。利休の茶の湯は戦国武将の権威に必要な文化にまで根づかせた。わずか3年の大山崎時代の中身の濃さを知らされる。

 山城と摂津の国境、天王山の山裾に天正の昔を知る小さな茶室を尋ねる人に、待庵は幽遠な侘び茶の深さを教えてくれる。

 by 松浪 孔 2016.6.24