一鍬一鍬枯れた裏庭を耕す。猛暑で疲れ果てた土地を耕し、自給の野菜作りに余生を過ごしたい気持ちになった。裏庭を眺めながら、やろうと思ってもやれない気力の衰えを、回ってきたさわやかな季節の風が気持ちに灯をとぼし一鍬の背中を押してくれた。大地に踏ん張って一歩の体力を確かめ、一鍬一鍬掘り起こす土と対話し働ける自分を発見する。
6年前、長野の善光寺の帰りに、姨捨駅に下車して信州の「棄老伝説」の里を訪ねた。駅から坂道を下りた長楽寺辺りまでが姨捨と呼ばれる地区で、寺から眺める棚田の段々の造形は自然を生かし素晴らしい。
棚田には伝説の幻影が染みついて、昼と夜の顔を持っているように思う。夜の水面に映る月には、厳しい暮らしの口減らしに、捨てられる老人のもの寂しいささやき、魂が語る心象の夜が浮かんでくる。
そして、私の見た昼の棚田の素晴らしさは、豊かな村づくりに山裾を切り開いて、命の米作りの里に変えた先人の遠大な開拓の汗と涙が作った景観でもある。
昔なら見放されている人生を、今は長寿と祝ってくれる。戦前戦後の起伏の厳しい暮らしを生きてきて、禅語の「春来草自生」が教えるこの年になって分かる心境がある。信州の棄老の幻影が平成のこの世にやってきそうな気がして、最期の一歩まで働ける幸を棄老伝説は私に問いかけているように思う。
故郷の山川は人の心を惜しみなく浄化してくれる。見渡すと仏の住む大山、山裾の晩田山丘陵には弥生時代の人の集落がある。取り巻く自然が災害を払い、小さな暮らしの営みを見守ってくれている。一鍬が掘り重なって線となり畑らしくなった。心地よい土の匂いが一鍬の疲れを忘れさせてくれる。
by 松浪 孔 2018.11.2