上方の豪商塘氏が商売に失敗して島原の轡者に落ちぶれても、袋に入れて身につけ終生手放さなかった茶碗がある。この茶碗に松江七代藩主不昧公が取りつかれて求めた「喜左衛門井戸」。今、国宝の名碗である。
この名碗が京都の大徳寺孤篷庵から松江へやってきた。昨年9月、島根県立美術館の「不昧公200年祭」は、ゆかりの品々の中に待望の名碗を拝見できる機会となった。
その日、会場の奥にガラス張りの喜左衛門井戸が弱い照明に包まれていた。前後左右から鑑賞できる喜左衛門井戸は、独座して語りを誘う禅者のような風格が見えかくれする。
近づいて凝視すれば少し見えてきた。胴の一部に火間が見える。そして口縁の山道にいびつの意外な姿を知った。高台まわりの梅花皮の激しく縮れるさまが何となく見える。期待がいま少し満たされない寂しい一時が過ぎた。
茶碗は手に取って見るものだと思う。目の前にある名碗に物足りない壁を感じるのは、私の五感の衰えのせいだろうか。
桃山時代の武将や豪商がたしなんだ侘茶が求めた茶碗は、李朝に生きた人々の哀愁を秘めた暮らしの飯碗であった。高麗茶碗は博多の商人島井宗室が朝鮮から海をまたにかけた商品であった。宗室は若くして茶の湯を学び、高値で取引される茶道具の目利きを20歳の頃には身につけ、荒海を往来して一代で巨万の富を築いた豪商である。喜左衛門井戸も慶長の頃、大阪の竹田喜左衛門が高麗茶碗に魅せられ宗室から求めたゆかりの茶碗と思う。
名碗には伝世という人から人へ伝わり磨かれて生き続ける命がある。奇譚な伝説を持つ喜左衛門井戸は、かつて零落した塘氏の執念が今も茶碗の存在感を誇示して人々を魅了させている。
by 松浪 孔 2019.3.19
