老いと暮らす一服の茶碗

 茶わん一つあればいい。一人で茶をたてて飲む自得のお茶。茶碗と二人だけで遊びを作りだす。

 今日の御所丸茶碗の故国への郷愁を眺めるのも楽しい。慶長の頃、朝鮮半島で作られた織部様式の御所丸を、現代の韓国の作家が往時の名品を忠実に伝承して、今を楽しませてくれる茶碗である。たかが一個の茶碗ではなくなり、使うほどに愛着を生み、美しさを見せてくれる。

 私の小さい頃は、人生わずか50年とよく聞かされていた。今では人生の折り返し地点の長寿社会になったが、人は必ず老いが来て、体の機能の衰えを感じる。

 鎌倉時代の高僧親鸞の晩年に書かれた手紙は、「目も見えず候ふ。なにごともみなわすれて候ふうへに…」と文字も乱れる。老いの衰えを認め、現実を究める高僧の姿が浮かんで胸があつくなる。老いに逆らわない自然の摂理の中から安らぎは見えてくる。

 小さな楽しさ、安らぎは意識しないと消えて去っていく。「ただ今の一念、むなしく過ぐることを惜しむべし」。今生きているこの一瞬が無駄に過ぎてしまうことを惜しまなくてはいけない、と徒然草の一節にある。気づいた楽しさを逃がさず今を大切に生きたいと思う。

 週2回の通所介護を利用して2年が過ぎた。今では施設の穏やかな人づくりの和の中で、年を忘れ、子供にかえって楽しんでいる。

 午後3時、今日もお茶の時間がきた。どの茶碗にしようか。一服を飲み干すと御所丸茶碗が呼びかける。作家もソウルの店も思い出せない。記憶から去っていったようだ。オンドルの生活の匂いだけが47年の時空を超えてやってくる。昔をしみじみ味わう老いの孤独の中にともる安らぎの時である。

 by 松浪 孔 2022.6.27