野口英世への母シカの手紙

 10月下旬、東北の磐越西線で野口英世が生まれた猪苗代を通り、会津若松市を訪ねた。

 野口英世青春館は市の中心街にある土蔵造りの二階家。野口英世が医学の道を決意させた原点ともいえる会陽医院の跡で、当時の姿を今に伝えている。 野口英世は幼いとき、囲炉裏いろり火傷やけどをした。母シカは英世を背負って8里の道を歩いて中田村の観音さまに救いをすがるしかなかった。

 青春館の2階に英世の苦学出世への記録が展示されている。その奥に拙というのか、幼時の落書きのような手紙が私の足を止めさせた。母シカの手紙である。渡米して11年、会いたい母親の感動の手記である。

 『おまイのしせにわ。みなたまけました』。お前の出世にはと始まる長い手紙である。

 『はやくきてくたされ。はやくきてくたされ』。早く帰ってきてくれと出世した息子を見たい素朴な情景を感じる。

 『いつくるとおせてくたされ。これのへんちまちてをりまする。ねてもねむられません』。いつ帰るか教えてくれで終わっている。情感迫る手紙である。信仰深い中田観音様が傍らで書かせてくれたようにも見えてくる。

 英世にとって母シカは、中田観音の化身のように生涯守り続けてくれた、おっ母であった。

 野口英世がアフリカで客死する最後の研究出張となるニューヨークの自宅を出発する様子を記した山本厚子『野口英世は眠らない』に、私には気になる一文がある。

 「出発の朝がやってきた。野口夫婦は無言で朝食を終え、準備ができたところで、野口は引き出しから母親の墓碑銘の拓本をカバンに入れた。しかし中田観音の守り袋は研究室に忘れてきていた。それは南米諸国に出張の時はいつも肌身離さなかったものである・・・」

 by 松浪 孔 2009.12.25